エンタングルメント抽出実験、Nature誌に掲載!
私たちは「エンタングルメント抽出実験」に世界で初めて成功しました。
これは「2ペアから1ペアの抽出」という最小単位とは言え「複数ペアのにより小数ペアを抽出する」初めての実験になります。この成果はNature誌に掲載されました:
T. Yamamoto, M. Koashi, S. K. Ozdemir, and N. Imoto:
"Experimental extraction of an entangled photon pair from two identically decohered pairs"
Nature 421(January 23, 2003)
ここではその内容について解説します。
- エンタングルメントとは
(エンタングルメントを知っている方はここを飛ばしてください。)
エンタングルメントとは、
二つ以上の離れた系の間に見られる量子力学特有の相関です。
夫婦が一人ずつ東京と大阪に旅行したとき、
大阪に行ったのが女と観測されれば、
東京に行ったのは男と瞬時にわかります。
これも相関ですが、
二人がどちらに行くか決めて別れた時点でコトは終わっていたのです。
これは古典的相関と呼ばれます。
ところが量子論では二つの粒子が別れた後も見えない赤い糸で結ばっていることがあります。
たとえばベル状態と呼ばれる二つの光子は片方が偏光メガネを通過すればもう片方は通過しないという相関がありますが、
これだけなら古典相関です。
でも大阪で誰かが全然別の偏光フィルタで篩いにかけるという操作をすると、
東京の光子はその篩いを通らない性質を持つように変わります。
これをもっと進めて組合せ事象を吟味すると、
個々の確率分布や合成確率分布などで説明できない事象、
つまりどう考えても後ろで赤い糸で結ばっているとしか考えざるを得ない事象が出てきます(ベル不等式の破れなど)。
これはエンタングルメントが古典論で説明できない一例です。
その赤い糸の強さがエンタングルメントの強さになりますが、
いろいろな定義があって理論上の統一を見ていません。
でも大ざっぱに言って0%がエンタングルメント無し、100%が完全なエンタングルメントを表すように作られています。
何かをするときエネルギーが必要なように、
また何か秩序立った構造を作ろうとするときエントロピーの捨て場所が必要なように、
量子情報処理をするときにはエンタングルした粒子ペアをたくさん準備して、
それをリソースとして使います。
すなわちエンタングルメントは量子コンピューティング(用語集*1参照)・量子暗号(*2)・量子テレポーテーション(*3)など量子情報処理(*4)を成り立たせる根源的概念です。
一度作ったエンタングルメントが簡単に壊れなければ話は楽なのですが、
エンタングルメントは外界の雑音の影響を受けやすいのです。
光子を光ファイバーで遠くに運んでいる間に、
あるいは情報をメモリーに保持している間に弱まって行きます。
一度弱まったエンタングルメントは、
ペアを成す二つの粒子を再び同一地点に持ってこない限り、
回復することはできなくなります。
つまり減る一方です。
しかしこのようなペアがたくさんあると、
それらを一括操作(*5)することによって、
エンタングルメントを回復した少数のペアを抽出することが理論上可能です。
大阪に来た粒子達を一堂に集め、
東京は東京で一堂に集め、
東京−大阪間の電話連絡は許すとすると、
そこからエンタングルメントが回復した粒子ペア(東京−大阪にまたがる一対の粒子ペア)が何対か得られます。
これがエンタングルメントの蒸留です。
このようにエンタングルメント蒸留はより大規模な量子情報処理実現のために不可欠な応用技術ですが、
後述するように、
より原理的意味もあります。
- 成果の概要
理想的なエンタングルメント蒸留では、
不完全なペアが独立に多数準備されても成立します。
ですから揺らぎが非常に速い雑音の影響でそれぞれのペアが事実上独立にエンタングルメント劣化を来しても、
蒸留できます。
しかし信号に比べて雑音の揺らぎの方が遅いことも非常に多くあります。
光ファイバーに光子を次々と通す場合はその典型です。
この場合もそれぞれの光子ペアがエンタングルメントを失うことには変わりありませんが、
受けた雑音はペアごとに同じものです。
この場合の蒸留の方が一般の蒸留より易しそうですが、
これまではこれすらも実現していませんでした。
この「遅い雑音によりエンタングルメントを消失したペア群から完全なエンタングルメントを抽出」するような光回路を私たちは2001年に提案しました(Phys. Rev. A64, 012304, 2001)。
今回の成果はその実証実験を行ったもので、
複数ペアを一括操作したエンタングルメント操作実験としては世界初のものです。
実験では偏光がエンタングルした光子ペア二対(全部で四個の光子)をパラメトリック下方変換により同時発生し、位相雑音を付加することにより個々のペアにおけるエンタングルメントがほぼゼロになったことを測定により確認した上で、提案した「エンタングルメントを抽出する光回路」に通して混合し、二つの光子の偏光を観測することにより一対の光子ペアを残し、そのペアのエンタングルメントが大きく増強されていることを実験的に確認しました。
- 背景
量子情報処理においては、
古典的なbitがとる0と1の二値のみならず、
その重ね合わせ状態もとり得るqubit(*6)が基本単位となります。
通常のbitの演算がNOTのような1bit演算とAND, ORのような2bit演算があるように、
量子演算では1qubit演算(回転ゲート等)、
2qubit演算(制御回転ゲートや制御NOTゲート)、
それに多qubit一括演算(エンタングルメント蒸留等)が必要となります。
このうち多qubit一括演算によるエンタングルメント蒸留はまだ実現していませんでした。
それを行うには現在の技術では非現実的なほど巨大な光カー効果(*7)等の非線形性が必要と考えられていましたが、
私たちは2001年、
線形相互作用を用いても確率的演算(常時成功するとは限らないが成功した場合はわかるような演算)が可能であることを示しました(Physical Review A63, 030301, 2001)。
またその例として、
雑音によりエンタングルメントが消失した二対のペアから完全なエンタングルメントを有する一対のペアを抽出する光回路を提案しました(Phys. Rev. A64, 012304, 2001)。
エンタングルメント蒸留には実用上の重要性があるのみならず、
原理的な問題として「そのペアの数をどこまで減らさずに復帰できるか」がそのペアのエンタングルメントの強さを表すと考えられています。
したがってエンタングルメント蒸留可能性はそのままエンタングルメント計量の概念になるという原理面での重要性もあります。
これまでエンタングルメント蒸留の物理的実現法に関する提案は無いわけではありませんが、
極めて強い非線形光学効果が必要であったり、
あるいは線形光学で出来ても、
どのような変調が加わったか知る必要があるものであったりしました(これではもちろん雑音とは言えない)。
本提案は二つのペアに加わる位相雑音が同じであれば、
雑音の中身まで知る必要はありません。
また線形光学とフォトンカウンターを用いてできることも特徴で、
そのために今回実行することができました。
- 実験および成果の内容
二対の光子ペア(四つの光子)の同時発生はパラメトリック下方変換を用いて行いました。
パラメトリック下方変換とは、
レーザー光パルスを非線形光学結晶に当てたとき波長が二倍の(すなわち周波数が半分の)光子のペア一対が発生する現象です。
ここまでは多くの研究機関で日常的に行われています。
ここでレーザー光パルスを強めるとともに結晶の構成・配置を工夫すると、
稀にそのようなペアが同時に二対発生します。
これはこの文執筆の現時点で日本初かつ世界でも数カ所しか行われていません。
ペアを成す二つの光子にランダムな位相雑音を加え、
エンタングルメントを消失させます。
実験では液晶変調器を用いて45度、90度、135度・・・のように360度を8等分するランダムな位相変調を、
二つのペアに共通にかけました。
これは光子列が一つの光路を続けて通る場合などをシミュレートしたことに相当します。
この位相雑音を加える前と後のエンタングルメントを測定しました。
測定は(1)二光子干渉のコントラストv(visibility:*8参照)および(2)EOF (entanglement of formation:*9 参照)と呼ばれる二つの値で評価しました。
一般にEOFの方が学問的には適切であるが、
vの方が直観的に理解しやすい量です。
その結果を下の図に示します。
これより、
雑音を加える前のペアは非常に強いエンタングルメントを有しており、
雑音を加えた後はそれがほとんど消失していることがわかる。
論文にはvおよびEOFの実験値算出の元になった二光子干渉実験データおよび量子トモグラフィ(*10)の測定結果を示しました。
次にこれら二対のペアを「エンタングルメント抽出回路」に通した後、
四つの光子のうち二つの同時カウントを行って二つの光子を残し、
そのエンタングルメントを測定しました。
すなわち「二光子同時カウント条件付き二光子干渉」の実験を行いました。
これは非常に低いの頻度でしか起こらないデータを集積しなければならないため、
連続40時間ほどをかけて二光子干渉実験結果が得られます。
これによりv値を測定することができました。
その結果も次の図に示しました。
しかしEOFを求めるための量子トモグラフィを行うためにはさらに多くのデータ量が必要です。
本実験ではEOFの下限推定値(実験データからこれより小さいEOFはあり得ないという値)のみが得られるので、
それも次の図に示しました。
実際のEOFはこれより大きくなります。
以上により、
強くエンタングルした光子ペアを二対同時に発生し、
それに位相雑音を加えることによりエンタングルメントをほぼ消失させ、
「エンタングルメント抽出回路」を通すことによりエンタングルメントが復帰していることを実験的に実証しました。
これで、
2ペアから1ペアの抽出という最小単位ではありますが、
「複数ペアの一括処理により小数ペアを抽出する」初めての実験になります。
- 用語解説
- *1 量子コンピューティング
エンタングルした量子ビットは、爆発的多数の可能性を、それほど多くない数の量子ビットで表すことができる。これを利用し複雑な計算を並列処理するのが量子コンピューティングであり、原理的に従来のコンピュータをはるかにしのぐ性能が得られる。特に公開鍵暗号を破る力があるとされている。
- *2 量子暗号
「量子力学的信号は傷つけずに覗くことができない」という原理を用いて、送られた乱数表についた傷は全て盗聴行為によるものと仮定し、乱数表を縮めて傷を直したものを秘密鍵暗号の鍵とする暗号方式。盗聴者を含めた安全性の理論にはエンタングルメントが不可欠だが、送信者と受信者のみに限ると、必要なテクノロジーとしてエンタングルメントを使うものとそうでないものがある。量子暗号は量子コンピューティングができても破られない。
- *3 量子テレポーテーション
「量子状態を含めた物質の状態の情報」を古典的通信のみで送ること。ただし準備としてエンタングルしたペアを送信地点と受信地点に配布しておくことが必要である。完全なテレポーテーションには完全なエンタングルメントがリソースとして必要である。
- *4 量子情報処理
量子力学の不思議な性質を利用して古典的にはできない情報処理を行うこと。不思議な性質とは主に (1)重ね合わせ状態と観測による量子ジャンプ、および (2)エンタングルメントを指す。量子コンピューティング、量子暗号、量子テレポーテーション等が含まれる。
- *5 一括操作
複数の系があるとき古典的操作は全て個々の系への操作に分解できる。たとえば系1の測定、系2への電圧の印加、それらの同時進行などである。しかし量子力学では新たに「両者がエンタングルした状態への量子ジャンプ」など、個々の系への操作に分解できない全体操作があり、それらを一括操作と呼ぶ。技術的にはその制御はチャレンジングな研究課題である。
- *6 量子ビット
量子演算を行う情報の最小単位で、デジタル信号の1ビット(0または1)と異なり、0と1の重ね合わせ状態(例えば、0が30%で、1が70%という確率情報)をとりえる物理的実体により構成される。光子の偏光の他、光子の位置や位相、電子の有無、電子スピン、核スピン、二準位原子・分子、超伝導電流の方向などで実現される。
- *7 光カー効果
光の強さが増すと屈折率が増加する現象。これを使うと、ある光子の有無により別の光子の位相が変わるし、有無の重ね合わせはそのまま二種類の位相回転の重ね合わせとなる。これは制御回転ゲートに他ならない。実際には、光子一個で位相を反転するほど強大な光カー効果は、現時点では望めない。
- *8 干渉のコントラストv(visibility)
干渉の強さを表す指標で、干渉縞の明暗の最も明るい部分の明るさをM、最も暗い部分の明るさをmとしたとき、v≡(M−m)/(M+m)で定義される。v=0は干渉ゼロ、1は完全な干渉を表す。vの大小とエンタングルメントの大小は常に対応するとは限らないが、エンタングルメントの存在を証明する他の測定に補われれば、エンタングルメントの強さを視覚的直観に訴える指標であり、測定も困難ではない。
- *9 EOF (entanglement of formation)
「そのエンタングルメントのペア1個を造り出すために完全なエンタングルメントのペアが平均何個必要か」という量を表し、0(エンタングルメント無し)から1(完全なエンタングルメント)までの値を取る。エンタングルメントの計量として優れているが、下限推定値でなくこの値そのものを測定するためには、次項の量子トモグラフィを行う必要がある。
- *10 量子トモグラフィ
たとえば脳の状態を知りたい場合、MRIやCTスキャン等の断層写真を撮るが、これは古典系の状態が密度分布で表わされるからである。量子状態で密度分布に相当するのは密度行列であるが、未知の状態にある量子力学的な物理系(光子など)が与えられた場合、その密度行列を実験的に求めることを量子トモグラフィと言う。その考え方や方法はCTスキャンと似ている。テレポーテーションやエンタングルメント蒸留等がどの程度忠実に行われたかを定量評価する際に不可欠となる。
量子光学・量子情報研究グループホームに戻る