だいぶ昔のことであるが、「永久機関で詐欺」という事件を新聞の片隅で見かけたことがある。無から有のエネルギーを取り出せる装置というアイデアを売り込まれたある会社が、それを信じて大金を投資したが、もとより実現不可能な永久機関なので投資を回収できなくなり、詐欺として訴えたというものである。これを読んだときは吹き出してしまったが、よく考えるとなかなか考えさせられるものがある。一つは科学リテラシーの問題である。「欺された方が悪い。エネルギー保存則も知らんのか?」と言うのは簡単だが、では科学の啓蒙の努力を教育者あるいは研究者として十分しているか? あるいは科学ジャーナリズムもそういう役割があると思うが、足りているか? もう一つの問題は、投資において詐欺とチャレンジの違いは主観的なものであるという点である。上の事件は確信犯と思えるが、たとえば競争的研究資金獲得のための研究企画書で「本プロジェクトでは5年で量子コンピューターを作る」などというたぐいは珍しくない。それで研究資金を得た場合は詐欺ではないのか?「本当に作るつもりでいたんだ」と言われたら、永久機関ほど明確に詐欺とは言えない。むしろ審査する方の判断力が問われる。さらに単純でないのは、このような無理のある研究企画であっても実績がありやる気のある研究者が進めると、まがりなりにも科学が進歩することが少なくないのである。
さて、エネルギー保存則は今や常識であろうから、冒頭の詐欺事件については「私だったら欺されない」と自信をもって言う人がほとんどであろう。しかしひるがえって考えると、どうしてあなたはそれほど信念をもってエネルギー保存則を信じることができるのか? たかだか数十年の人生経験だけからそのような確信を持つとしたら、その根拠は何か? エネルギー保存則は又の名を熱力学の第一法則というが、熱力学の第二法則(エントロピー増大則)になると ― 科学者は自信をもって「それに反する発明提案は考慮に値しない」と言うと思うが ― 一般の人は自信がぐらつくかもしれない。さらに日常経験と直接の繋がりがないように見える説になると、科学者の中でも自信をもって判断する人とそうでない人が出てくる。この、あったりなかったりする「自信」の根拠は何か? そもそも科学の進歩とはそういう自信を打ち砕くことの連続ではなかったか?
自信の根拠が自分の直接確的経験にある場合は話は簡単である。たとえば「重力を無くして飛行する装置を発明した」と言われたら、あなたは誰に相談することもなく自分の判断で「ウソだ!」と言うだろう。重力はどんなものにも等しく働いていて、例外を見たことがないから。
だが有限の人生で直接経験できることは限られている。たとえばエネルギー保存則の場合、エネルギーの高精度測定というのは実は意外と難しいので、エネルギー保存則を身をもって体験したことがあるという人は科学者といえど滅多にいない。一般の人はなおさらだろう。多くの人にとってエネルギー保存則を信じる根拠は「そう習ったから」とか「教科書に書いてあるから」とか「権威ある専門家がそう言っているから」という伝聞に基づくものかもしれない。このような伝聞に基づく信奉というのは弱い。権威ある人が違うことを言いはじめたら、「違うのか?」と自信がぐらつくだろう。伝聞による信奉は弱いし、強い信念をもたらし得る直接経験は人生の長さから考えると極めて限られている。
そこで重要となるのは「理論上の豊富な経験」という、一種の間接経験による信念ではないだろうか。科学者あるいは多くの一般人がエネルギー保存則をどのように信じているかというと、伝聞による信奉だけのはずはないし、直接的実験の経験による信念であるはずもない。それより、物理や化学や電気の問題をいろいろ解いた経験がある人は、あらゆる局面でエネルギー保存則が成立していることに気づくだろう。エネルギー保存則が成り立っていない解答を得た場合はどこかでミスを犯したと思って間違いなく、それで間違いを発見したという経験を少なからずしているだろう。こういう「その法則が各方面で整合性よく成立していることを理論の上で幾多の体験を経る」ことにより、自分自身の感覚として確信できる。
これなら、たかだか数十年の人生の経験しかなくても、
自分が主体的に帰納的推論をした結果として確信できる。
それでは運動量保存則はどうだろう? これもエネルギー保存則と同レベルの大原理であり、疑う余地は全くない。
エネルギー保存則の方がより基本的だ、などということもない。
自分の感覚として身についている人が多いだろう。
物理や化学の勉強をした人には熱力学の第二法則も同じく感覚として信じられるであろう。
量子力学の不確定性原理はどうか? これは身をもって体験したことがあるという人は稀少だろう。
しかし量子力学の問題をいくつも解いてみれば、
やはり成立しているということが感覚として身につくであろう。
成り立たないことはあり得ないと確信できるようになる。
エンタングルメント(量子もつれ)が持つ諸性質も、
理論をいろいろいじくっていると感覚的に確信できる。
(もちろん私の研究室は量子力学や量子情報の研究を行っているので、実験結果として不確定性原理やエンタングルメントを感覚として経験できる。これはこれで感動的な体験だが、確信を持つことはそれ以前の「理論上の体験」でも可能である。)
さてこの辺になってくると、世の中一般的にはエネルギー保存則ほどトップレベルの原理と思われていないかもしれない。
なにしろ、そんな話は聞いたこともないという方が普通であろう。
だから、もし科学者の誰かが「不確定性原理に反する現象を見いだした」と主張したならば、
世の中一般は「ほほう、真偽はともかく、これは科学的吟味が必要な面白い主張だ」となる可能性が生じてくる。
物理学者は違う。
単に「不確定性原理は嘘だ」という主張がなされたら、
詳細吟味する以前に却下するであろう。
では「ニュートリノは質量を持つか?」という問題はどうだろう?
ノーベル賞の小柴先生の実験があるので、
現在の正統な物理ではニュートリノは質量を持つことになっている。
そして私はそれを信用している。
しかし白状すると、私はニュートリノは質量を持つはずだとか持たないはずだという感覚がない。
したがってこの問題については、
主体性のない伝聞的信奉である。
私に限らず多くの物理学者がそうなのではないだろうか。
感覚がつかめないのは、
他の事実との整合性という知見の積み重ねが人類としてまだ不足しているからでもある。
では、「光速を越えるものはない」はどうだろうか? あらかじめ言っておくと、
波の位相速度は光速度を越えることがある。
また群速度も光速度を超えることがある。
しかし「何かの影響」が伝わる速度は光速度を越えられない。
このことを一般的には「なにものも光速度を越えることはない」という表現で象徴しているのである。
これの「原理度」はどのくらいだろうか?
エネルギー保存則と同レベルの根本原理であろうか?
しかしいろいろな物理の問題をいじっていると、
やはり何かの影響が光速度を越えて伝わることはないと確信できて来る。
だから、少なくとも私にとって「何かの影響は光速度を越えない」という命題は、
アインシュタインがそう言っているからそうなのだろうというのではなく、
感覚的にエネルギー保存や運動量保存や熱力学の第2法則や不確定性原理と同じくトップレベルの原理である。
最近ニュートリノが光速を越えて飛んだという実験が報告されている。
これは実験途上の吟味中のものをマスコミがスクープしたというのでなく、
実験チームが自ら中途と思われる段階で報道発表しているものである。
もちろん、
ニュートン力学が相対論の近似であるように、
相対論も未知の理論の近似の可能性もある。
ニュートリノについて人類はすべて知っているわけではないから、
ニュートリノが常識を越える振る舞いをする可能性というのはある。
しかし、ニュートリノが光速を越えて走った、と言うのなら、
「正確には何の速度が光速を超えたのか?」を十分吟味して欲しい。
上にも書いたように、
見かけ上何かの速度が光速度を越えることはあるのである。
もし本当に「何かの影響が伝わる速度がまぎれもなく光速を越えた」と主張するなら、
よほどの根拠と確信を持って発表に臨んで欲しいものである。
注)念のために言えば、私は、既存の科学にとどまっていなければいけないと言っているわけではない。
むしろ思考停止には大反対である。
たとえば系と測定器が過去に相互作用してエンタングルしている場合を考えたいこともあるだろう。
そういう場合を含むべく不確定性原理を一般化するのもいけないというわけではない。
[最終稿:2012年1月3日]
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