「きれいな夕日だね」
「まるで私たちのためにあるみたいね」
ここはスーニオン岬、ギリシャはアテネから70 km西のエーゲ海を臨む、世界で一番夕日が美しいといわれている所だ。新婚旅行に来たアリスとボブはロマンチックな雰囲気にうっとり。金色の太陽が水平線のかなたに今にも着水する寸前だ。ざわめく波の音も、もう二人の時間ための演出としか思えない...
「でもあの太陽は本当はもう沈んじゃってるんだよ。僕たちが見てるのは八分十九秒前の太陽なんだから」
ボブのスカタン、いきなり科学的なことを言って雰囲気を壊さなくってもいいのに。しかし確かに太陽と地球の距離は一億五千万キロメートル、光が届くのに八分十九秒かかる。その間に太陽は約2度、太陽の直径より少し大きいくらいの角度沈んでしまっているはずだ。ボブの言っていることは正しい・・・・・?
「いいえ、太陽は沈んでないわ!」
とアリスが叫んだ。さては雰囲気をぶち壊されて頭に来たか?
この話の前半(次の段落まで)は、表現はともかく、エッセンスは筆者のオリジナルではなく人から聞いた話である。その人とは北陸先端技術大学教授の外山芳人氏である。実は彼も誰かから聞いた話だと言っていた。(彼は人から聞いた話をさも自分が考えたようなふりをして言ったりしないのだ。) そういうわけで元々の出典は不明であるが、面白い話なので紹介を続けよう。なお、この話では大気の密度高低差による光の屈折効果は無視する。
アリスは頭に来たのではないようだ。彼女は続けた。
「太陽が地球のまわりを回っているのだったらあなたの言う通りだわ。でも実際は太陽は止まっていて、地球が自転しているから日が昇ったり沈んだりするんでしょ。だから、よく考えればわかることだけど、今見ている太陽は八分十九秒前の太陽、つまり水平線から2度上にいたときの太陽の光なのよ。でも太陽から来る光の方向は変わっていないから、太陽が今現在どこにいるかというと、今見ている方向にいるのよ」
これは次の図を見ればすぐわかることだ。
「なーるほど。地動説と天動説の違いだね」
ボブは、現代人として天動説をとっくに払拭したつもりでいたが実はまだ払拭しきれていなかったことをちょっと恥じた。
しかしボブは気を取り直して考えを進めた。
「まてよ、それなら地動説が正しいか天動説が正しいかを直接確かめる仮想実験が考えられるんじゃないかな。太陽のどこか一点が沈む瞬間にその点の方向にレーザー光を発射して、その点に行き着けば地動説の勝ち、地球からの角度にして4度(往復で2度の2倍)逸れれば天動説の勝ち」
アリスはちょっと考えていたが、
「天動説にも二通りあるんじゃないかしら。そのうち一つは地動説とハッキリ別物だけど、もう一つは見分けがつかないような天動説が」
アリスの説はこうだ。空間(非相対論の範囲=ニュートン的とする)は等速直線運動に対して静止系はないが、回転運動に対しては静止系がある。たとえば、速度計は「何に対して」というのが必要(車だったら地面に対して)だが、ジャイロスコープは何もレファレンスがなくても角速度計測ができる。閉じた部屋でも回転していれば遠心力とかコリオリの力を感ずるわけだ。第一の天動説は回転静止系から見て太陽が地球のまわりを回っているとするもので、第二の天動説は遠心力とかコリオリの力も数式上補正してしまうものである。明らかに第一の天動説と地動説は物理的に別物で、ボブの仮想実験によって区別されるが、第二の天動説は地動説を座標変換して回りくどく表現したものに過ぎないので、区別がつかない。
「でも第二の天動説は不自然だよ。宇宙の中で地球を回転中心に据える必然性がないもん。そういうのは間違っていると言っていいんじゃないの」
「実験によって区別されない二つの理論は同一の理論だという立場に立てば同じよ」
「表現が簡単な方あるいは統一性のある方が正しいと言ってはいけないのかな。リンゴが木から落ちる落ち方の法則と惑星運動のケプラーの法則を別々の法則と考えても事実を説明したいだけなら構わないけど、引力の法則で統一した方が自然法則の本質に迫ったと言えるんじゃないかな」
「その方が望ましいとは言えるけど、そうじゃないと間違いだとは言えないでしょうね」
似たような話が量子力学にもありそうだ。確率解釈を伴う正統派コペンハーゲン解釈、確率解釈をしないD.ボームの理論、観測者まで理論に入れてしまうエベレットの多世界解釈などがあるが、既存の実験系に対してどれも同一の計算結果を与える。逆にいえば、これらの理論の違いにメスを入れる実験系は考え出されていない。この意味では全部同じ理論である。これについてはいずれまた。