東京大学豊島学寮が閉寮になるという知らせを受けた。私は学部4年の卒論研究から修士研究にかけての3年間お世話になった。30年以上も前の話である。面倒見のよかった寮母さん夫妻も当時既に結構な年だったから、とっくに引退しているだろう。大体において大学の学寮というのは減って来ている。廃止されるものが多いが、中には外国人留学生向けの寮に変わるものもある。
いま豊島学寮は個室と聞いているが、当時は二人部屋だった。寮に帰っても勉強しかすることがなかったのでそれでも問題はなかった。個人でテレビを持っている人はまずいなかった。ラジオは居室でも受かるので、私も持っていた。とはいえ二人部屋だからヘッドフォンで聴いた。これはかえって集中できるので、スポンジが水を吸い込むようにFM放送のクラシックや現代音楽を覚えた。風呂は共同で、たしか夜10時ころにはボイラーが止まるが、その後しばらくは十分入れる。しかしたくさんの寮生が入ったあとだと濁って来る。誰か風邪などひこうものならたちまち蔓延する。
食事のまかないが付いていることも助かる。たいへん安かった記憶があるが、値段の割においしく満足できるものだった。午後10時になると引っこめられるので、予約した日はそれまでに帰って自分の分を確保しなければならない。ところが毎日何食かは帰りが間に合わない人がいて、残ってしまうのだ。そこで夜10時になるとそれが無料で供される。まあ捨てるよりはよほどいい。それを当てにして、早いもの順で待っている行列が10時少し前にできるのだ。当時は、まあ今でもいるだろうが、苦学生というのが普通にいて、毎日それで無料で夕食を済まそうという猛者たちがいた。悲愴感はなくニコニコしながら「今日も待ってます」という感じだ。当然、n食残っている場合はn人が並んでいる。そして予約していた一人が帰って来ると、列の最後の一人が「あー来ちゃった」とは声には出さないが、苦笑いとともに列を去るのである。また一人帰って来たら次の一人が頭を掻きながら列を離れる。そして10時の合図とともに、運良く残った人たちが一斉に食事を始めるというわけだ。私も予定外で予約していなかったときなど利用したことがあるが、非常に得した気分になる。臨時参加でも常連達は温かく列に迎え入れてくれる。彼らの照れ笑いやガッツポーズがなんとも懐かしい。
娯楽室のようなところに、なんと、アップライトピアノが置いてあった。と言うと贅沢なと思うかもしれない。しかし見るからに朽ち果てていて、出ない音はあるし、弾くと戻って来ないので手で引き上げなければ音が鳴りっぱなしのキーなどいくつかある。調律なんてとんでもないことで、ホンキートンクピアノどころではない。隣の音と変わらないくらいずれていたり、キー一つで3本の弦がトーン・クラスターを鳴らす箇所もある。内部に何か挟まっているような変な音のキーもある。最も適切に表現するなら、プリペアドピアノと言った方がいい。アップライトのプリペアドピアノなんて、ジョン・ケージを連れて来たら目を輝かせて喜んだだろう。
音楽といえば、すぐそばに箏曲の宮下一家の家があった。今でもあるのだろうか? 宮下一家とは、今は故人の宮下秀冽、息子の宮下伸それに娘の宮下たづ(現二代目の宮下秀冽)だ。宮下家の目の前に都電荒川線の庚申塚という駅があるが、これは荒川線とともに今でもある。都電の音や箏曲のレッスンの音を背景に少し歩けば、お婆ちゃんの原宿と言われるとげぬき地蔵通りに出る。ちょっと食事の雰囲気を変えて違う物を食べたいときは「ときわ食堂」で魚の塩焼き定食を食う。特に旬の秋刀魚の塩焼き定食が美味い。ときわ食堂は今もある。
寮のイベントというのもときどきあった。大体が寮生が勝手に企画するものだが、印象に残っているものとして山手線一周歩く大会というのがあった。これは寒い冬、一晩かけて山手線沿いをゆっくり歩くのだ。大学院生だから運動不足がちだが、その解消になるとともに、社会勉強にもなる。たとえば鶯谷でいかがわしいことで名高い通りにさしかかったとき、相当な深夜だというのに男女が寄り添いながら歩いているのを多く見かけた。それを目の当たりにして、噂は本当だったんだ、とひそひそ話し合ったりした。一周も近く夜空も白んで来るにつれて、社会が目を覚まし活動を始める相変化の様子が手に取るようにわかった。
彼ら卒寮生は今どうしているだろう。上のようなイベントがあったとはいえ、寮では食う寝る風呂勉強くらいしかしないので、研究室の仲間ほどは付き合いがなかった。それでも、名前は思い出せなくてもいろいろな顔が今でも浮かんでくる。あの頃ほど自分がいろいろな面で大きく成長したときはなかったような気もする。閉寮の知らせに臨んで古き良き時代が一つ去る感が拭えない。しかしまあ世の中は常に動くものだから、これはなにかの進展を意味するものなのだろう。
[2010年6月1日 記]
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